2008年04月11日 23:30
東北にある喜子さんの実家には、親類縁者がひっきりなしに訪れていた。
元は旅館だった建物なので、いくらでも寝泊まりする部屋もある。
ただでさえ、母と姉と彼女、そして二人の叔母と叔母の娘夫婦二組、さらにその子供達五人、あわせて十四名という大所帯である。
おそらく彼女だけでなく家の者全員が、今現在その家の中に何人が寝泊まりしているか、正確に把握出来ていなかったに違いない。
他人が紛れ込んでいても、下手したら気づかなかったかもしれない。
そんなある日、彼女の家の三軒隣に住む遠縁の親戚で、寝たきりの「風間のじっちゃ」が頻繁に無呼吸状態に陥るようになった。
いよいよ危ないかもしれない、と親類縁者が彼の元を訪れ、そのまま喜子さんの実家に逗留した。
屋敷内はいつも以上に賑やかになった。
当時十五歳だった喜子さんはと言えば、普段あまり会えない仲良しの従兄弟と話をしたり、年寄りからは「めんこいめんこい」と可愛がられてお小遣いをもらったりして、彼女なりにその喧噪を楽しんでいた。
大広間で食事を終えた子供達は長く続く廊下をばたばたと駆け回り、大人達はすぐさま宴会を始め、めいめいに雑談をはじめている。
「風間のじっちゃも気性あれえばって、あれはあれでいいおどごだ」
「んだんだ。わんつか酒控えてれば、まんだ十年ばし長生きできたべさの」
話に花を咲かせる大人達の邪魔にならぬよう、喜子さんは空いた食器を手早く集め、台所へ持って行く。
殊勝な心がけではなく、お小遣いが目当てなのだ。
冷たい水道水で手早く洗った食器を布巾で拭うと、流しの上の棚にてきぱきと仕舞う。
少し前にコップを落として割ってしまった事を思い出し、彼女はいつもより奥の方へコップを押し込んだ。
洗い物を片付け、冷え切った手に息を吹き掛けながら、彼女は子供達の遊びの輪に入ろうと、流しから背を向けた。
ごとん。
何かが落ちる音に振り返った。
見ると、ガラスのコップがひとつ、飲み口を上にした状態で、台所の床の上に立っている。
それはまるで誰かがそこに置いたかのようだ。
流しからの位置も微妙に遠い。
彼女が首をかしげて見つめていると、コップに細かなヒビが入り始めた。
あっ、と思った時には、コップの上半分が粉々に砕けてしまった。
しかし破片は全て、割れ残った下半分に綺麗に収まっていて、床にはかけらひとつ落ちていない。
その姿は、まるで小さいコップになみなみとガラスのかけらを注いだかのようだ。
こんなこともあるんだ。
驚きが物珍しさに替わり、彼女はなんだか楽しくなった。
早速彼女はそのコップを大広間へ持って行った。
大人達はそのコップを見ると顔をほころばせ、口々に「めずらしいめずらしい」と言っては笑った。
彼女も手柄を取ったかのような満足感を憶え、一緒に笑った。
その時、電話のベルが鳴り、近くにいた叔父が受話器を取った。
「おおい、電話。風間のばっちゃから」
大広間にいた人々は、息を呑んだ。
その一同の視線を背に受けながら、母が広間を出て行った。
まもなく、母が大広間に戻ってきた。
一同が見守る中、母は元の席に戻り、喜子さんの前にある、あのコップを見た。
そして堪えきれず、顔を真っ赤にして大笑いした。
「風間のじっちゃ、夢ば見たんだど。
おらの家さきたばって、童んど、うるせえはんで頭さ来でコップ割って帰ってきたんだど」
その言葉に、大人達も大笑いした。
それから堰を切ったように、「風間のじっちゃ」を肴にして宴席は盛り上がった。
喜子さんも、従兄弟達とともにお腹を抱えて大笑いした。
それから半年後、風間のじっちゃは往生した。
その仏壇には、あのコップがしばらく飾られていた。
「天国で弁償」なのだそうだ。
お参りに来た人々は皆、そのコップを見て笑みを漏らした。
「悲しいことはほんの少しだけ。楽しいことの方が多かった時代だったのよ」
五十年ほど昔の、おおらかな時代のうらやましい思い出である。
(超-1 2008/「天国で」より)
元は旅館だった建物なので、いくらでも寝泊まりする部屋もある。
ただでさえ、母と姉と彼女、そして二人の叔母と叔母の娘夫婦二組、さらにその子供達五人、あわせて十四名という大所帯である。
おそらく彼女だけでなく家の者全員が、今現在その家の中に何人が寝泊まりしているか、正確に把握出来ていなかったに違いない。
他人が紛れ込んでいても、下手したら気づかなかったかもしれない。
そんなある日、彼女の家の三軒隣に住む遠縁の親戚で、寝たきりの「風間のじっちゃ」が頻繁に無呼吸状態に陥るようになった。
いよいよ危ないかもしれない、と親類縁者が彼の元を訪れ、そのまま喜子さんの実家に逗留した。
屋敷内はいつも以上に賑やかになった。
当時十五歳だった喜子さんはと言えば、普段あまり会えない仲良しの従兄弟と話をしたり、年寄りからは「めんこいめんこい」と可愛がられてお小遣いをもらったりして、彼女なりにその喧噪を楽しんでいた。
大広間で食事を終えた子供達は長く続く廊下をばたばたと駆け回り、大人達はすぐさま宴会を始め、めいめいに雑談をはじめている。
「風間のじっちゃも気性あれえばって、あれはあれでいいおどごだ」
「んだんだ。わんつか酒控えてれば、まんだ十年ばし長生きできたべさの」
話に花を咲かせる大人達の邪魔にならぬよう、喜子さんは空いた食器を手早く集め、台所へ持って行く。
殊勝な心がけではなく、お小遣いが目当てなのだ。
冷たい水道水で手早く洗った食器を布巾で拭うと、流しの上の棚にてきぱきと仕舞う。
少し前にコップを落として割ってしまった事を思い出し、彼女はいつもより奥の方へコップを押し込んだ。
洗い物を片付け、冷え切った手に息を吹き掛けながら、彼女は子供達の遊びの輪に入ろうと、流しから背を向けた。
ごとん。
何かが落ちる音に振り返った。
見ると、ガラスのコップがひとつ、飲み口を上にした状態で、台所の床の上に立っている。
それはまるで誰かがそこに置いたかのようだ。
流しからの位置も微妙に遠い。
彼女が首をかしげて見つめていると、コップに細かなヒビが入り始めた。
あっ、と思った時には、コップの上半分が粉々に砕けてしまった。
しかし破片は全て、割れ残った下半分に綺麗に収まっていて、床にはかけらひとつ落ちていない。
その姿は、まるで小さいコップになみなみとガラスのかけらを注いだかのようだ。
こんなこともあるんだ。
驚きが物珍しさに替わり、彼女はなんだか楽しくなった。
早速彼女はそのコップを大広間へ持って行った。
大人達はそのコップを見ると顔をほころばせ、口々に「めずらしいめずらしい」と言っては笑った。
彼女も手柄を取ったかのような満足感を憶え、一緒に笑った。
その時、電話のベルが鳴り、近くにいた叔父が受話器を取った。
「おおい、電話。風間のばっちゃから」
大広間にいた人々は、息を呑んだ。
その一同の視線を背に受けながら、母が広間を出て行った。
まもなく、母が大広間に戻ってきた。
一同が見守る中、母は元の席に戻り、喜子さんの前にある、あのコップを見た。
そして堪えきれず、顔を真っ赤にして大笑いした。
「風間のじっちゃ、夢ば見たんだど。
おらの家さきたばって、童んど、うるせえはんで頭さ来でコップ割って帰ってきたんだど」
その言葉に、大人達も大笑いした。
それから堰を切ったように、「風間のじっちゃ」を肴にして宴席は盛り上がった。
喜子さんも、従兄弟達とともにお腹を抱えて大笑いした。
それから半年後、風間のじっちゃは往生した。
その仏壇には、あのコップがしばらく飾られていた。
「天国で弁償」なのだそうだ。
お参りに来た人々は皆、そのコップを見て笑みを漏らした。
「悲しいことはほんの少しだけ。楽しいことの方が多かった時代だったのよ」
五十年ほど昔の、おおらかな時代のうらやましい思い出である。
(超-1 2008/「天国で」より)




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