2008年04月15日 00:33
私が小学生だった頃、京都の花街だったところに、母方の叔父が住んでいた。
花街というのは、遊女屋や芸妓屋などの”男性の遊びどころ”が集まる界隈のことである。
その時分にはそう言う店は殆ど畳まれていたが、その時代の名残を残した”置屋造り”の古い木造家屋が多く残されており、叔父もそんな中の一軒に部屋を借りていた。
ある時、私と二つ下の弟は、両親に連れられて叔父の家に行く機会があった。
左右に大きく広がるその屋敷の外観に圧倒されながら、その玄関をくぐる。
その中には細長い廊下がずっと奥まで続き、その廊下に沿うように、一定の間隔で部屋が設えられている。
そのうちいくつかは引き戸が付いていたが、ほとんどが開け放たれ、廊下に向かってぽかんとその口を開き、小さな室内の様子が丸見えだった。
初めて見る不思議な光景に目を奪われていると、両親がそれに気付いたらしく、
「ここはたくさんの部屋があるけど、叔父さんの部屋以外はのぞいちゃ駄目だよ。他はよその人の部屋だから」
とたしなめられた。
廊下の奥の方にある叔父の部屋で、両親は叔父と何やら話を始めた。
薄暗い部屋の中で続く大人の会話に飽き、私は弟を連れて廊下に出た。
そして玄関をくぐり、太陽の下で背筋を伸ばした。
気付くと、付いてきていたはずの弟の姿がない。
慌てて、暗い廊下へととって返す。
洞窟のように、僅かに差し込む光が仄かに照らす、長い長い廊下。
叔父の部屋を通り過ぎ、さらに奥に進むと、急に視界が開けた。
そこは小さな中庭だった。
その中程に、時代劇で見たような古い井戸があり、それを取り囲むように草木や花が咲いている。
日差しがその中庭を照らす。
その中庭の手前で、尻餅をついたような体勢で上半身を起こし、へたり込んでいる弟を見つけた。
声を掛けるとほっとしたのか、私の方を向いて泣きそうな顔をした。
「どしたの。転んだの?」
その問いに弟は首を振った。
「……知らんおばちゃんが……」
叔父の部屋を出た時、弟は私と逆に廊下の奥に向かって歩き始め、そしてこの小さな中庭に辿り着いた。
物珍しさに、中庭に一歩足を踏み出そうとした。
その時、ふわっと、背後から何者かに抱きつかれた。
彼は驚きのあまり、その場で硬直した。
うふふ……。
彼の耳元で、女性の穏やかな笑い声が聞こえた。
母とは全く違う、艶のある笑い声。
ほほほ……。
くすくす……。
それはまるで彼を取り囲み、優しくからかって楽しんでいるようだった。
何も出来ずにいると、その彼の目の前に、透き通るような白く細い腕が伸びてきて、細い指先で彼の頬を撫でた。
その時、私がそこに現れ、声を掛けたのだ。
その瞬間、笑い声と白い腕は消えた。
「おばちゃん、どっかのおばちゃん。いいにおいの」
弟に言われる前から、私は気付いていた。
そのあたりを包むように、ふんわりとした香りが漂っている。
それは母が使うような化粧品と違う、どこか懐かしい、粉おしろいと髪油の残り香だった。
(超-1 2008/「いいにおいの」より)
花街というのは、遊女屋や芸妓屋などの”男性の遊びどころ”が集まる界隈のことである。
その時分にはそう言う店は殆ど畳まれていたが、その時代の名残を残した”置屋造り”の古い木造家屋が多く残されており、叔父もそんな中の一軒に部屋を借りていた。
ある時、私と二つ下の弟は、両親に連れられて叔父の家に行く機会があった。
左右に大きく広がるその屋敷の外観に圧倒されながら、その玄関をくぐる。
その中には細長い廊下がずっと奥まで続き、その廊下に沿うように、一定の間隔で部屋が設えられている。
そのうちいくつかは引き戸が付いていたが、ほとんどが開け放たれ、廊下に向かってぽかんとその口を開き、小さな室内の様子が丸見えだった。
初めて見る不思議な光景に目を奪われていると、両親がそれに気付いたらしく、
「ここはたくさんの部屋があるけど、叔父さんの部屋以外はのぞいちゃ駄目だよ。他はよその人の部屋だから」
とたしなめられた。
廊下の奥の方にある叔父の部屋で、両親は叔父と何やら話を始めた。
薄暗い部屋の中で続く大人の会話に飽き、私は弟を連れて廊下に出た。
そして玄関をくぐり、太陽の下で背筋を伸ばした。
気付くと、付いてきていたはずの弟の姿がない。
慌てて、暗い廊下へととって返す。
洞窟のように、僅かに差し込む光が仄かに照らす、長い長い廊下。
叔父の部屋を通り過ぎ、さらに奥に進むと、急に視界が開けた。
そこは小さな中庭だった。
その中程に、時代劇で見たような古い井戸があり、それを取り囲むように草木や花が咲いている。
日差しがその中庭を照らす。
その中庭の手前で、尻餅をついたような体勢で上半身を起こし、へたり込んでいる弟を見つけた。
声を掛けるとほっとしたのか、私の方を向いて泣きそうな顔をした。
「どしたの。転んだの?」
その問いに弟は首を振った。
「……知らんおばちゃんが……」
叔父の部屋を出た時、弟は私と逆に廊下の奥に向かって歩き始め、そしてこの小さな中庭に辿り着いた。
物珍しさに、中庭に一歩足を踏み出そうとした。
その時、ふわっと、背後から何者かに抱きつかれた。
彼は驚きのあまり、その場で硬直した。
うふふ……。
彼の耳元で、女性の穏やかな笑い声が聞こえた。
母とは全く違う、艶のある笑い声。
ほほほ……。
くすくす……。
それはまるで彼を取り囲み、優しくからかって楽しんでいるようだった。
何も出来ずにいると、その彼の目の前に、透き通るような白く細い腕が伸びてきて、細い指先で彼の頬を撫でた。
その時、私がそこに現れ、声を掛けたのだ。
その瞬間、笑い声と白い腕は消えた。
「おばちゃん、どっかのおばちゃん。いいにおいの」
弟に言われる前から、私は気付いていた。
そのあたりを包むように、ふんわりとした香りが漂っている。
それは母が使うような化粧品と違う、どこか懐かしい、粉おしろいと髪油の残り香だった。
(超-1 2008/「いいにおいの」より)




コメント
山際 みさき | URL | -
置き屋造りの通路は
"廊下"ではなく土間やコンクリートの通路でした。
作品にも"廊下"ではなく通路、と書いていたと思いますが…
そのあたりはちゃんと明記しないと誤解されてしまう様ですね。
反省します。
( 2008年06月28日 23:09 [編集] )
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