2008年03月31日 11:18
上田さんはカレンダーを見て溜息をついた。
「暑かったんだよ」
彼の額にはうっすらと、汗が浮かんでいる。
「とにかく暑かったんだよ、その日は」
三年前の夜、上田さんは、井川さんという悪友とともに、母校のプールに忍び込んだ。
都心に出ていた井川さんとの久しぶりの再会に、二人とも学生時代のテンションが蘇ってきているようだった。
その農業学校の周囲は人家もまばらで、道路にある街灯の明かりが、水面の一部をわずかに照らし出していた。
井川さんは素早く着替えると、プールの水に全身を浸した。
「早く来いよ」
催促されて、上田さんは汗のにじんだシャツを脱ぎ捨て、水着に着替えた。
そしてプールに右足を入れた瞬間。
全身の汗が引き、右足から脳天にかけて、冷たいものが電流のように駆け巡った。
思わず、右足をプールから引き抜く。
「何やってんだよ?」
「なあ、この水、冷たすぎないか?」
「そうかあ?」
井川さんは全く気にせず、スイスイと泳いでいる。
だが、上田さんはどうしても泳ぐ気になれなかった。
「ちょっとタイム計ってくれよ」
井川さんはそう言うと、飛び込み台の上に立って構えた。
上田さんは腕時計の秒針がゼロの位置に来るのを見計らった。
「よーい、ドン!」
水しぶきを上げて、井川さんが颯爽と飛び込む。
スムーズな泳ぎに合わせて、上田さんが併走する。
しかしゴールの五メートル手前のラインで、井川さんは泳ぐのをやめ、立ち上がった。
「何だよ、ギブアップか?」
「ち、違……息が……。お前……息継ぎの時、水……かけやがっただろ?」
「はあ? 俺、何もしてねえよ」
上田さんは弁明したが、井川さんは疑いの眼差しを彼に向けてくる。その時。
ぱしゃん。
飛び込み台のそばで、小さな飛沫が上がった。
そしてそこから、細かな気泡が沸き上がり、徐々に井川さんに向かって近づいてくる。
気泡はスピードあげるとともにその勢いを増し、やがて井川さんを取り囲むように回り始めた。
動けない井川さんを囲む気泡は、やがて小さくなり、そして出なくなった。
「何だよ、今の……。もう帰ろうぜ」
上田さんの呼びかけに、井川さんは黙って右手を差し出した。引き上げて欲しいのだろう。
応えるように上田さんが右手を差し出すと、井川さんは彼の手首を握った。
そして、ぐいっ、と、強い力で彼の体をプールの中に引きずり込んだ。
水中から彼が顔を出すと、井川さんが彼の顔に手を伸ばしてきた。
その目は虚ろで、口をだらしなく開いている。まるで別人のようだ。
沈められるっ……!
上田さんは井川さんの姿をした何かを振りほどき、どうにかプールから脱出した。
そして、まっしぐらにフェンスによじ登り、乗り越えた。
着地に失敗して泥だらけになったが、そんな事はどうでもよかった。
家を出る時は蒸し暑かった夜風が、とても冷たく感じた。
いや。彼の体がすっかり冷え切っていたのかもしれない。
這々の体で家まで帰り着いた時、異変に気づいた。
右手首がもの凄く痒い。
玄関の蛍光灯に照らされた右手は、掌の形にかぶれていた。
何度か井川さんの携帯に電話したが、応答はなかった。
痒さと不安で眠れないまま、翌朝を迎えた。
プールに置き去りにした井川さんの事が気になり、彼の実家を訪れると、彼の母親が困惑顔で応えた。
「夜中に水浸しになって帰ってきてねぇ。ついさっき、東京に戻るって出てっちゃったんよ」
その後、井川さんとの連絡が取れない日が続き、三日後。
上田さんの元に、井川さんの母親から連絡が入った。
井川さんが死んだ。
海で溺死した。と。
ここまで話すと、上田さんは再び、カレンダーを見つめた。
「それから毎年だ。その日になると、右手首がかぶれる」
そう言って彼が右手首を見せてくれたが、肌に変な部分はなかった。
「それと、携帯にメールが入るんだ。『今日そっちへ帰るよ、プール行こうぜ』って」
「アドレスとか変えないのか?」
その私の問いに、彼は寂しげな微笑みを見せて、首を振った。
毎年その日が来ると、彼は地元を離れる事にしている。
今年ももうすぐ、八月三日がやって来る。
(超-1 2008/「八月三日」より)
「暑かったんだよ」
彼の額にはうっすらと、汗が浮かんでいる。
「とにかく暑かったんだよ、その日は」
三年前の夜、上田さんは、井川さんという悪友とともに、母校のプールに忍び込んだ。
都心に出ていた井川さんとの久しぶりの再会に、二人とも学生時代のテンションが蘇ってきているようだった。
その農業学校の周囲は人家もまばらで、道路にある街灯の明かりが、水面の一部をわずかに照らし出していた。
井川さんは素早く着替えると、プールの水に全身を浸した。
「早く来いよ」
催促されて、上田さんは汗のにじんだシャツを脱ぎ捨て、水着に着替えた。
そしてプールに右足を入れた瞬間。
全身の汗が引き、右足から脳天にかけて、冷たいものが電流のように駆け巡った。
思わず、右足をプールから引き抜く。
「何やってんだよ?」
「なあ、この水、冷たすぎないか?」
「そうかあ?」
井川さんは全く気にせず、スイスイと泳いでいる。
だが、上田さんはどうしても泳ぐ気になれなかった。
「ちょっとタイム計ってくれよ」
井川さんはそう言うと、飛び込み台の上に立って構えた。
上田さんは腕時計の秒針がゼロの位置に来るのを見計らった。
「よーい、ドン!」
水しぶきを上げて、井川さんが颯爽と飛び込む。
スムーズな泳ぎに合わせて、上田さんが併走する。
しかしゴールの五メートル手前のラインで、井川さんは泳ぐのをやめ、立ち上がった。
「何だよ、ギブアップか?」
「ち、違……息が……。お前……息継ぎの時、水……かけやがっただろ?」
「はあ? 俺、何もしてねえよ」
上田さんは弁明したが、井川さんは疑いの眼差しを彼に向けてくる。その時。
ぱしゃん。
飛び込み台のそばで、小さな飛沫が上がった。
そしてそこから、細かな気泡が沸き上がり、徐々に井川さんに向かって近づいてくる。
気泡はスピードあげるとともにその勢いを増し、やがて井川さんを取り囲むように回り始めた。
動けない井川さんを囲む気泡は、やがて小さくなり、そして出なくなった。
「何だよ、今の……。もう帰ろうぜ」
上田さんの呼びかけに、井川さんは黙って右手を差し出した。引き上げて欲しいのだろう。
応えるように上田さんが右手を差し出すと、井川さんは彼の手首を握った。
そして、ぐいっ、と、強い力で彼の体をプールの中に引きずり込んだ。
水中から彼が顔を出すと、井川さんが彼の顔に手を伸ばしてきた。
その目は虚ろで、口をだらしなく開いている。まるで別人のようだ。
沈められるっ……!
上田さんは井川さんの姿をした何かを振りほどき、どうにかプールから脱出した。
そして、まっしぐらにフェンスによじ登り、乗り越えた。
着地に失敗して泥だらけになったが、そんな事はどうでもよかった。
家を出る時は蒸し暑かった夜風が、とても冷たく感じた。
いや。彼の体がすっかり冷え切っていたのかもしれない。
這々の体で家まで帰り着いた時、異変に気づいた。
右手首がもの凄く痒い。
玄関の蛍光灯に照らされた右手は、掌の形にかぶれていた。
何度か井川さんの携帯に電話したが、応答はなかった。
痒さと不安で眠れないまま、翌朝を迎えた。
プールに置き去りにした井川さんの事が気になり、彼の実家を訪れると、彼の母親が困惑顔で応えた。
「夜中に水浸しになって帰ってきてねぇ。ついさっき、東京に戻るって出てっちゃったんよ」
その後、井川さんとの連絡が取れない日が続き、三日後。
上田さんの元に、井川さんの母親から連絡が入った。
井川さんが死んだ。
海で溺死した。と。
ここまで話すと、上田さんは再び、カレンダーを見つめた。
「それから毎年だ。その日になると、右手首がかぶれる」
そう言って彼が右手首を見せてくれたが、肌に変な部分はなかった。
「それと、携帯にメールが入るんだ。『今日そっちへ帰るよ、プール行こうぜ』って」
「アドレスとか変えないのか?」
その私の問いに、彼は寂しげな微笑みを見せて、首を振った。
毎年その日が来ると、彼は地元を離れる事にしている。
今年ももうすぐ、八月三日がやって来る。
(超-1 2008/「八月三日」より)



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