【リライト】餓鬼

2008年04月18日 23:45

「何もないところだったねぇ」
 今川さんは当時を振り返った。

 彼女は幼い頃、家族とともに群馬の寒村で暮らしていた。
 戦時中は、徴兵された父に代わって、母と三人の子供で小さな農家を守り抜いた。
 戦争が終わり、父が無事に復員したものの、暮らしは楽ではなかった。

「自給自足出来るだけ、まだ良かったんだけどね」

 戦後の日本各地には、戦争で全てを失った人が溢れていた。
 それは群馬の片田舎でも同様で、東京や神奈川から流れてきた物乞いや戦災孤児の姿を、頻繁に見かけるようになっていた。
 今川さんの父は情に厚い人だったようで、彼らに食事や野菜を分けてやったり、時には風呂に入れてやったりしていた。

 しかし、悪さをしようとする者には檄が飛んだ。
 時折、室内をこそこそと物色する物乞いが現れては、父に叱り飛ばされていた。
 両親が農作業に行っている間、子供達三人で留守番をしているのだが、そんな時に玄関先から物乞いが様子を伺っていると、子供達は生きた心地がしなかった。
 その度に、父が畑から大声で怒鳴り、物乞いを追い払ってくれた。

「あれはとても怖かったね。押し入ってこられたら堪ったもんじゃないけど、幸い、そういう事はなかったよ」

 それでも時々、農作物が盗まれることがあった。
 憤慨する母に対し、父は
「なに、またこさえればいい」
 と言って笑っていた。

 ある夜、今川さんは物音に目を覚ました。
 耳を澄ますと、小さな物音が台所からかすかに聞こえてくる。
 家族全員、その音に気付いて起きているらしく、息を殺している。
「お前達はそこにいろ」
 父は小声で囁くと、静かに起き上がり台所に向かった。

 ほどなく、父の怒声が響いた。
 しかし、聞こえたのはその声だけだった。
 間もなく、父が戻ってきたが、その様子がどことなくおかしい。
 心配して問いただす母に、父は重い口を開いた。

 父が台所に入ると、そこに蹲る人影を見つけた。
 その傍らには蓋の開いた米櫃があり、どうやらそこから生米を掴んでは、一心不乱に口に運んでいるらしい。
 窓から差し込む月明かりに、その姿が浮かび上がる。
 それは七歳くらいの少年だった。
 ぐしゃぐしゃの長髪は汚れ、シャツと半ズボンは酷く傷み色褪せている。
 棒のように痩せた手足のあちこちには、汚れとも血ともつかない赤黒いものが付着している。

「こらっ!」

 父が怒鳴ると、少年は動きを止め、振り返った。
 少年は骸骨のようにやせこけた顔を向け、虚のような眼窩で父を見上げた。
 そして、その姿は月明かりに溶けるかのように薄くなっていき、やがて消えた。
 少年の掴んでいた米が、ぱらぱらと地面に散らばった。

「その子、泣いていたんだって」
 今川さんは今でも、その時の父の顔が忘れられないという。

(超-1 2008/「餓鬼」より)


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