2008年04月18日 23:50
『のあい』というのは、集落同士をつなぐ山間の荒れた野路を指す、東北の方言である。
幼い喜子さんは母に連れられて、そののあいを歩いていた。
夏の夜空には、いまにも降ってきそうな星々が輝き、月明かりが左手の海面を照らしている。
集落の灯りはすでに背後の闇の彼方。
二人が進む先も、闇が濃く垂れかかっている。
母は喜子さんを怖がらせないように、道すがら海や山にまつわる面白い話をしてくれた。
喜子さんは潮騒に乗せて語られる、それらの話が大好きだった。
月光に微かに浮かび上がる稜線、周囲から聞こえる虫の音、涼やかな潮風。
喜子さんは、のあいが怖いなどと感じることはなかった。
話の合間に、二人は海の方を見ていた。
その海上に、奇妙なものがあった。
「あ、見てぇ」
喜子さんの言葉に、母もそれを見た。
海上に、白く長いものが浮いている。
先端が細く、その中程が膨らんでいる。
まるで、小柄な人が杖に掴まり、滑空しているように見える。
その先端は海面に向かって傾き、その高度を下げつつある。
二人が見守る中、それはゆっくりと波間に消えていった。
「おっかぁ、あれ、ひとだまぁ?」
「魂だっきゃなんも怖いもんでね、海でよぐ見えるもんだ」
喜子さんの問いに気丈に答えた母だったが、その声は震えていた。
「おっかぁ、あたし、あの魂っこ、ノキのばっちゃに見えたよぉ、ばっちゃいつもの杖ば持って海さ入っていったどぉ」
「そったこど、言うもんでね」
母に強く叱られたが、喜子さんは間違っていないと思った。
「ノキのばっちゃ」というのは、彼女の父方の祖母に当たる。
彼女の父方の家系は、一家を支える男手が早くに亡くなることが多かった為、漁業ではなく農業で生計を立てていた。
暮らし向きは楽ではなかったが、幸い、息子さんと船持ちの良家との縁談がまとまった。
にも関わらず、ノキのばっちゃは集落の外れのあばら屋で一人暮らしを続けていた。
ばっちゃは時折喜子さんの家を訪れては、積んだ桑の実を喜子さんにあげると帰って行った。
喜子さんは、ばっちゃの汚い格好が好きではなかった。
ばっちゃから桑の実を受け取る時、彼女はそれを顔に出さないよう、笑顔で受け取った。
それを知ってか知らずか、ばっちゃは孫の顔を見てにこりと微笑み返してくれていた。
ばっちゃが帰る時の、杖をついた丸い背中が忘れられなかった。
あの姿は、やはりノキのばっちゃとしか思えない。
納得のいかない喜子さんは何度も母にその事を言ったのだが、その度に母に叱られた。
すねた彼女は黙り込み、黙々と家路を急いだ。
その三日後、ノキのばっちゃが、あのあばら屋の中で亡くなっているのが見つかった。
いつ頃亡くなったのかはわからない。
それから、喜子さんの家に親戚がくると、あの夜の話になる。
あの時恐がり、自分を叱っていた母ですら、
「うちの童ど二人でノキの魂ば見た」
などと笑い話として大人達にその話をしていた。
それから何年かして、喜子さんは一人でのあいを歩ける年頃になった。
あの日と同じように、虫の声と月明かりに囲まれて家路を進む。
すると時折、白いものが海に消えていくのを見かけることがあった。
その大きさや形状は様々だった。
それらを目撃するたび、ノキのばっちゃが持ってきてくれた桑の実の、甘酸っぱい味を思い出したそうだ。
(超-1 2008/「のあい」より)
幼い喜子さんは母に連れられて、そののあいを歩いていた。
夏の夜空には、いまにも降ってきそうな星々が輝き、月明かりが左手の海面を照らしている。
集落の灯りはすでに背後の闇の彼方。
二人が進む先も、闇が濃く垂れかかっている。
母は喜子さんを怖がらせないように、道すがら海や山にまつわる面白い話をしてくれた。
喜子さんは潮騒に乗せて語られる、それらの話が大好きだった。
月光に微かに浮かび上がる稜線、周囲から聞こえる虫の音、涼やかな潮風。
喜子さんは、のあいが怖いなどと感じることはなかった。
話の合間に、二人は海の方を見ていた。
その海上に、奇妙なものがあった。
「あ、見てぇ」
喜子さんの言葉に、母もそれを見た。
海上に、白く長いものが浮いている。
先端が細く、その中程が膨らんでいる。
まるで、小柄な人が杖に掴まり、滑空しているように見える。
その先端は海面に向かって傾き、その高度を下げつつある。
二人が見守る中、それはゆっくりと波間に消えていった。
「おっかぁ、あれ、ひとだまぁ?」
「魂だっきゃなんも怖いもんでね、海でよぐ見えるもんだ」
喜子さんの問いに気丈に答えた母だったが、その声は震えていた。
「おっかぁ、あたし、あの魂っこ、ノキのばっちゃに見えたよぉ、ばっちゃいつもの杖ば持って海さ入っていったどぉ」
「そったこど、言うもんでね」
母に強く叱られたが、喜子さんは間違っていないと思った。
「ノキのばっちゃ」というのは、彼女の父方の祖母に当たる。
彼女の父方の家系は、一家を支える男手が早くに亡くなることが多かった為、漁業ではなく農業で生計を立てていた。
暮らし向きは楽ではなかったが、幸い、息子さんと船持ちの良家との縁談がまとまった。
にも関わらず、ノキのばっちゃは集落の外れのあばら屋で一人暮らしを続けていた。
ばっちゃは時折喜子さんの家を訪れては、積んだ桑の実を喜子さんにあげると帰って行った。
喜子さんは、ばっちゃの汚い格好が好きではなかった。
ばっちゃから桑の実を受け取る時、彼女はそれを顔に出さないよう、笑顔で受け取った。
それを知ってか知らずか、ばっちゃは孫の顔を見てにこりと微笑み返してくれていた。
ばっちゃが帰る時の、杖をついた丸い背中が忘れられなかった。
あの姿は、やはりノキのばっちゃとしか思えない。
納得のいかない喜子さんは何度も母にその事を言ったのだが、その度に母に叱られた。
すねた彼女は黙り込み、黙々と家路を急いだ。
その三日後、ノキのばっちゃが、あのあばら屋の中で亡くなっているのが見つかった。
いつ頃亡くなったのかはわからない。
それから、喜子さんの家に親戚がくると、あの夜の話になる。
あの時恐がり、自分を叱っていた母ですら、
「うちの童ど二人でノキの魂ば見た」
などと笑い話として大人達にその話をしていた。
それから何年かして、喜子さんは一人でのあいを歩ける年頃になった。
あの日と同じように、虫の声と月明かりに囲まれて家路を進む。
すると時折、白いものが海に消えていくのを見かけることがあった。
その大きさや形状は様々だった。
それらを目撃するたび、ノキのばっちゃが持ってきてくれた桑の実の、甘酸っぱい味を思い出したそうだ。
(超-1 2008/「のあい」より)




コメント
コメントの投稿