【リライト】ありがとう

2008年04月22日 23:47

 フリーターの谷口君は、ピザ屋のデリバリーを担当していた。
「内勤よか給料いいっすからね。見張られてないのも気分的に楽だし」
 彼の勤務時間は主に夕方から閉店まで。

 ある日、谷口君がその日最後の配達を終えた帰り道。
 公園の前を通りかかった時、彼のバイクの目の前に、バレーボールくらいの大きさの、ピンク色のボールが飛び出してきた。
 公園の入り口を見ると、幼い少女がそこに立っていた。
 鮮やかな白いワンピースにポニーテールのよく似合う、六歳くらいのかわいらしい女の子。
 その子は、怯えるような顔でボールと彼を見ていた。きっと叱られると思ったのだろう。
 彼はバイクを路肩に止めて、ボールを拾うと少女に差し出した。
「はい。気をつけて遊んでね」
「ありがとう」
 ぱっとかわいらしい笑顔になった少女は、嬉しそうにボールを受け取った。
 少女は、バイクに乗って走り去る谷口君を、ずっとそこに立って見送ってくれた。
 良いことしたなぁ、と彼は有頂天で店まで戻っていった。

 数日後、そんな出来事を忘れかけていた谷口君は、再び夜十時頃にその公園の前を通った。
 その目の前に、ピンクのボールが飛び出した。
 それを見て、彼の頭の中で様々なキーワードが走馬燈のように駆け巡った。

 夜中の十時。
 暗い公園に少女ひとり。
 公園から道路に飛び出るボール。
 交通量の多い車道。

 不自然で不吉な連想に、嫌な予感がした。
 彼は恐る恐る公園の入り口を見た。
 あの少女が立ち、彼を見て微笑んでいる。
 驚いた彼は、ハンドル操作を誤った。
 対向車のタクシーと接触し、バイクごと弾き飛ばされた。
 全身をしたたか打ち付け、起き上がることが出来ない。
 苦痛に顔をゆがめながら、彼は公園の方を見た。
 少女の姿は消えていた。

 その事故で足を骨折した谷口君は、しばらく入院することになった。
 数日して、入院生活に慣れはじめた頃。
 どこからか聞こえてくる音に、彼は目を覚ました。

 ぽーん、ぽーん……。

 樹脂製のボール独特の跳ねる音。
 あの事故の日にも、その前にも聞いたことがある音。
 それが、どこかから聞こえてくる。
 その距離も、方向も、つかめない。

 やがて、その音が途切れた。
 次の瞬間。

 ぽーん。

 彼の寝ているベッドの上を、ピンクのボールが通り過ぎ、消えた。

「おにいちゃん」
 彼の耳元で声がした。
「こないだはありがとう」
 少女はそう言うと、彼の顔を覗き込んだ。
 そこには、あのあどけない面影はなくなっていた。
 目はつり上がり、口は耳元まで大きく裂けた、獣のような容姿に変貌していた。
「あたしのおにいちゃんになって」

 翌朝、彼は意識を取り戻した。
 あたりに変わった様子も、あのボールもない。
 だけど、あれは夢ではない。
 このままでは……。
 彼は見舞いに来た家族に頼み、ベッドのタイヤの四隅にこっそり盛り塩をしてもらった。
 また、用意してもらったメモ用紙にサインペンで文章を書き、固定されている足の上に貼った。
『おにいさんにはなれません』
 他に良い方法が思いつかず、苦肉の策だった。

 それから、あの少女が現れることはなかった。
「もしかしたら、来たのかも知れないけど、メモを見て諦めてくれたんだと思います」
 退院後、彼はバイトをやめた。
 あの公園の前も、もう通ることはない。

(超-1 2008/「ありがとう」より)


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