2008年04月06日 03:47
温泉街の中心地に、そのホテルはあった。
ゴールデンウィークを利用した、二度目の北海道バスツアー、その三日目の宿泊先だった。
外観は綺麗なもので、ロビーもどことなく趣がある。
だが、フロントに渡されたキーを見て、違和感を憶えた。
それは、一般家庭で使われているような鍵に、部屋番号の刻印された楕円形のプラカードのついた、ちゃちなものだった。
添乗員が示したのは、綺麗な新館ではなく、離れの旧館だった。
どうみても、年代物の社員寮や研修所にしか見えない。
部屋番号の書かれたプレートの付けられたドアは、安アパートそのもの。
中も予想通りの狭苦しい部屋だった。
天井は低く、ちっぽけな窓から見える夜景の一部が、裁断し損ねた絵画のようだ。
「ハズレだな」
増谷さんは彼女に聞こえないように呟くと、荷物を下ろした。
オプショナルのナイトスポットツアーから戻ってきた増谷さんを含めた一行を、照明の落とされたロビーが出迎えた。
「え?」
足下照明と非常灯のみが点灯するロビーには、従業員の姿もない。
時刻は午後九時。
お土産屋を含めたサービス施設はすべて閉店している。
静まりかえった館内は、まるで病棟のようだ。
館内の居酒屋を楽しみにしていた彼は、完全に裏切られた。
部屋に戻ったものの、気分が悪い。
彼女と二人、新館の展望風呂に行く事にした。
新館の順路も薄暗い。
闇を抜けてたどり着いた展望風呂は、混浴ではなかった。
彼女は不安がったが、一緒に入るわけにもいかない、と女湯に押し込んだ。
だだっ広い男湯には、増谷さんただひとり。
まだ、就寝時間にはほど遠い。
シャワーの蛇口をひねると、生ぬるいお湯が流れ始めた。
その水音に混じって、ばしゃっ、という音が聞こえた。
まるで誰かが、手桶に溜まった水を流すかのように。
周囲を見渡したが、もちろん誰もいない。
さっと体を洗い流すと、湯に身を浸す。
すぐそばの湯面が波打つ。
誰かがゆっくりと、湯の中を移動するかのように。
息を呑む彼の耳に、再び、ばしゃっ、という音が聞こえた。
同じ頃、彼女もまた、湯船に浸かっていた。
女湯もまた、彼女ひとりだけだった。
にもかかわらず、大勢の濃厚な気配がする。
湯船の中も、洗い場も、脱衣所も。
他の客がいる時と同じ気配が。
大慌てで風呂から出た二人は、薄暗い廊下で顔を見合わせた。
翌朝、出迎えを待つツアー参加者がロビーに集まった。
皆、表情が暗い。
対照的に、ロビーは明るさを取り戻していた。
移動のバスの中で、彼は後ろに座っていた母子連れに声をかけられた。
「あのホテル、何か、気持ち悪くなかったですか?」
ええ、まあ、と曖昧に応えると、母親の方が話を続けた。
昨日の深夜、母子が寝ている部屋のドアを、誰かがノックした。
従業員は早々といなくなっている。
ドアスコープもなく、相手の確認が出来ない。
声をかけても応答がない。
ノックはやむことなく、繰り返される。
母親は思い切ってドアを開けた。
そこには、誰もいなかった。
母親の話が終わると、四人は押し黙った。
増谷さんはあのホテルを出る時、送り迎えに出た従業員の様子を思い出した。
彼らは、何かを知っているから、足早に引き揚げていたのか。
(超-1 2008/「温泉ホテル」より)
ゴールデンウィークを利用した、二度目の北海道バスツアー、その三日目の宿泊先だった。
外観は綺麗なもので、ロビーもどことなく趣がある。
だが、フロントに渡されたキーを見て、違和感を憶えた。
それは、一般家庭で使われているような鍵に、部屋番号の刻印された楕円形のプラカードのついた、ちゃちなものだった。
添乗員が示したのは、綺麗な新館ではなく、離れの旧館だった。
どうみても、年代物の社員寮や研修所にしか見えない。
部屋番号の書かれたプレートの付けられたドアは、安アパートそのもの。
中も予想通りの狭苦しい部屋だった。
天井は低く、ちっぽけな窓から見える夜景の一部が、裁断し損ねた絵画のようだ。
「ハズレだな」
増谷さんは彼女に聞こえないように呟くと、荷物を下ろした。
オプショナルのナイトスポットツアーから戻ってきた増谷さんを含めた一行を、照明の落とされたロビーが出迎えた。
「え?」
足下照明と非常灯のみが点灯するロビーには、従業員の姿もない。
時刻は午後九時。
お土産屋を含めたサービス施設はすべて閉店している。
静まりかえった館内は、まるで病棟のようだ。
館内の居酒屋を楽しみにしていた彼は、完全に裏切られた。
部屋に戻ったものの、気分が悪い。
彼女と二人、新館の展望風呂に行く事にした。
新館の順路も薄暗い。
闇を抜けてたどり着いた展望風呂は、混浴ではなかった。
彼女は不安がったが、一緒に入るわけにもいかない、と女湯に押し込んだ。
だだっ広い男湯には、増谷さんただひとり。
まだ、就寝時間にはほど遠い。
シャワーの蛇口をひねると、生ぬるいお湯が流れ始めた。
その水音に混じって、ばしゃっ、という音が聞こえた。
まるで誰かが、手桶に溜まった水を流すかのように。
周囲を見渡したが、もちろん誰もいない。
さっと体を洗い流すと、湯に身を浸す。
すぐそばの湯面が波打つ。
誰かがゆっくりと、湯の中を移動するかのように。
息を呑む彼の耳に、再び、ばしゃっ、という音が聞こえた。
同じ頃、彼女もまた、湯船に浸かっていた。
女湯もまた、彼女ひとりだけだった。
にもかかわらず、大勢の濃厚な気配がする。
湯船の中も、洗い場も、脱衣所も。
他の客がいる時と同じ気配が。
大慌てで風呂から出た二人は、薄暗い廊下で顔を見合わせた。
翌朝、出迎えを待つツアー参加者がロビーに集まった。
皆、表情が暗い。
対照的に、ロビーは明るさを取り戻していた。
移動のバスの中で、彼は後ろに座っていた母子連れに声をかけられた。
「あのホテル、何か、気持ち悪くなかったですか?」
ええ、まあ、と曖昧に応えると、母親の方が話を続けた。
昨日の深夜、母子が寝ている部屋のドアを、誰かがノックした。
従業員は早々といなくなっている。
ドアスコープもなく、相手の確認が出来ない。
声をかけても応答がない。
ノックはやむことなく、繰り返される。
母親は思い切ってドアを開けた。
そこには、誰もいなかった。
母親の話が終わると、四人は押し黙った。
増谷さんはあのホテルを出る時、送り迎えに出た従業員の様子を思い出した。
彼らは、何かを知っているから、足早に引き揚げていたのか。
(超-1 2008/「温泉ホテル」より)






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