2008年03月31日 10:39
暮色に包まれた土手沿いの道を、百合子さんは歩いていた。
細長い川と冬枯れした川辺を撫でるように、冬の寒風が吹き抜けてゆく。
いつもの帰り道と違う、ちょっと遠回りの散歩道。
空には一番星がほのかな光をたたえて浮かんでいる。
”さーぎーりーきーゆるー、みーなとえのー”
風に乗って、かすかな歌声が後ろの方から聞こえた。
”ふーねーにーしーろし、あーさのしもー”
どことなく哀愁のある侘びた歌声は、少し後方を歩く人のものらしい。
子供の頃に聞いた事のある歌。
百合子さんは男性の歌声に合わせて、歌詞をたぐり始めた。
”ただ水鳥の声はして
いまだ覚めず、岸の家”
確か曲名は……。
「冬景色」
つい、声に出していた。
と同時に、後方の足音が止まった。
振り返ると、その男性と目があった。
「そうですか、冬景色と言うんですか……。
好きな歌なのに、名前がどうしても思い出せなくてね」
男性は照れ笑いした。その視線は、闇に隠れつつある川面を見つめている。
五十代くらいだろうか。背広姿のその男性は、普通の会社帰りのサラリーマンに見えた。
「恥ずかしながら、歌詞の意味もよくわからなくってね。いったいどんな漢字をあてるのかも知らないんですよ」
「子供の頃覚えた歌って、そんなもんですよ」
「兄が、好きな歌でした」
夕景から夜の闇へと移りゆく情景の中に佇む男性のシルエット。
その顔が、どこか儚い嘲笑めいた笑みを浮かべていた。
「あの日もちょうどこんな時間にね、この道を歩いていたんです。
丁度このあたりだったと思います。このあたりまでくると、人通りも寂しくて、聞こえてくるのは風の音だけで。
その風の音に乗って、かすかな歌声が後ろから聞こえてきましてね」
”さーぎーりーきーゆるー、みーなとえのー
ふーねーにーしーろし、あーさのしもー”
「そういえば子供の頃、兄と二人、声を合わせて歌いながら故郷の家路を急いだっけ、と、懐かしい思い出がふと蘇りましてね。
つい、その声に合わせて口ずさんでいました」
”たーだ、みずどりの、こーえはしてー
いーまーだーさーめずー、きーしのいえー”
「歌い終わって振り返ってみたのですが、誰もいませんでした。
家に着いてすこしして、故郷から電話がありましてね。兄が亡くなったと」
夕闇の中で、男性は空を見上げた。そして、百合子さんの方に向き直り、
「すいませんでした。変な話をしちゃって」
と、頭を下げた。
その顔には先刻までの仄暗い笑みはなく、寂しげな照れ笑いを浮かべていた。
やがて道は岐路にさしかかり、二人は会釈をして分かれた。
百合子さんは住宅街方面へ。
男性は川沿いの寂しげな道へ。
闇の中へ、男性の小さな背中が消えてゆく。
その寂しげな歌声とともに。
(超-1 2008/「冬景色」より)
細長い川と冬枯れした川辺を撫でるように、冬の寒風が吹き抜けてゆく。
いつもの帰り道と違う、ちょっと遠回りの散歩道。
空には一番星がほのかな光をたたえて浮かんでいる。
”さーぎーりーきーゆるー、みーなとえのー”
風に乗って、かすかな歌声が後ろの方から聞こえた。
”ふーねーにーしーろし、あーさのしもー”
どことなく哀愁のある侘びた歌声は、少し後方を歩く人のものらしい。
子供の頃に聞いた事のある歌。
百合子さんは男性の歌声に合わせて、歌詞をたぐり始めた。
”ただ水鳥の声はして
いまだ覚めず、岸の家”
確か曲名は……。
「冬景色」
つい、声に出していた。
と同時に、後方の足音が止まった。
振り返ると、その男性と目があった。
「そうですか、冬景色と言うんですか……。
好きな歌なのに、名前がどうしても思い出せなくてね」
男性は照れ笑いした。その視線は、闇に隠れつつある川面を見つめている。
五十代くらいだろうか。背広姿のその男性は、普通の会社帰りのサラリーマンに見えた。
「恥ずかしながら、歌詞の意味もよくわからなくってね。いったいどんな漢字をあてるのかも知らないんですよ」
「子供の頃覚えた歌って、そんなもんですよ」
「兄が、好きな歌でした」
夕景から夜の闇へと移りゆく情景の中に佇む男性のシルエット。
その顔が、どこか儚い嘲笑めいた笑みを浮かべていた。
「あの日もちょうどこんな時間にね、この道を歩いていたんです。
丁度このあたりだったと思います。このあたりまでくると、人通りも寂しくて、聞こえてくるのは風の音だけで。
その風の音に乗って、かすかな歌声が後ろから聞こえてきましてね」
”さーぎーりーきーゆるー、みーなとえのー
ふーねーにーしーろし、あーさのしもー”
「そういえば子供の頃、兄と二人、声を合わせて歌いながら故郷の家路を急いだっけ、と、懐かしい思い出がふと蘇りましてね。
つい、その声に合わせて口ずさんでいました」
”たーだ、みずどりの、こーえはしてー
いーまーだーさーめずー、きーしのいえー”
「歌い終わって振り返ってみたのですが、誰もいませんでした。
家に着いてすこしして、故郷から電話がありましてね。兄が亡くなったと」
夕闇の中で、男性は空を見上げた。そして、百合子さんの方に向き直り、
「すいませんでした。変な話をしちゃって」
と、頭を下げた。
その顔には先刻までの仄暗い笑みはなく、寂しげな照れ笑いを浮かべていた。
やがて道は岐路にさしかかり、二人は会釈をして分かれた。
百合子さんは住宅街方面へ。
男性は川沿いの寂しげな道へ。
闇の中へ、男性の小さな背中が消えてゆく。
その寂しげな歌声とともに。
(超-1 2008/「冬景色」より)




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